独学者の手記

独学者のメモです。

中国メモ(1) 中国における食人肉の風習について

桑原隲蔵(くわばらじつぞう)[1870-1931]という東洋史学者がいます。東洋文庫には彼の『東洋文明史論』があります。そこには、中国の南部と北部のさまざまな違いに注目した「歴史上より観たる南北支那」、中国における食人肉の風習をさまざまな文献から詳細に証明した「支那人に於ける食人肉の風習」、中国以外の国の視点から見られた中国の姿を論じた「アラブ人の記録にら見えたる支那」、そしてかっては西洋より進んだ文明を誇っていた中国の技術を解説した「紙の歴史」「カーター氏著『支那に於ける印刷の起源』」が収められています。ここでは、彼の中国における食人肉の風習を証明した論文「支那人に於ける食人肉の風習」に注目したいと思います。

桑原は、日中友好を前提とした上で、中国の長短両面を見るように説き、その「暗黒の方面」として中国における食人肉の風習を説明します。この風習は決して例外的事象でなく、ある意味でごく日常的事象である、というのです。まず、日中友好については次のように語ります。

「日支両国は唇歯相倚る間柄で、もちろん親善でなければならぬ。日支の親善を図るには、まず日本人がよく支那人(ママ)を了解せねばならぬ。支那人をよく了解するためには、表裏二面より彼等を観察する必要がある。経伝詩文によって、支那人の長所美点を会得するのももちろん必要であるが、同時にその反対の方面、すなわちその暗黒の方面をも一応心得おくべきことと思う。食人肉風習の存在は、支那人にとってあまり名誉のことではない。されど儼然たる事実は、とうていこれを掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せし、もしくば存在することを承知しおくのも、また支那人を了解するに無用であるまいと思う。」〔『東洋文明史論』「支那人間に於ける食人肉の風習」166頁、桑原隲蔵東洋文庫

つまり、桑原は中国に対して崇拝するのでなく、さりとて反発一辺倒でもなく、きわめて冷静にその実情を確かめようというのです。学問的態度であると考えます。以下、桑原の論文をまとめてみます。

中国における食人肉の場合には以下の五種があります。(1)飢饉の時に人肉を食用する場合(2)籠城して食糧尽きて人肉を食用とする場合(3)嗜好品として人肉を食用とする場合(4)憎悪極まって怨敵の肉を喰らう場合(5)医療目的で人肉を食用する場合、です。以下、少し詳しく記します。(桑原の論文には実に多くの例が挙げられていますので、興味のある方は参照なさって下さい。なお、この記事を書き終わろうとしている時に、論文が青空文庫にあると知って少々落ち込んでおります…書く必要がなかった……)

支那人間に於ける食人肉の風習」桑原隲藏www.aozora.gr.jp


(1)飢饉の時に人肉を食用する場合
中国では、一説によると千年間で五百年は旱魃の被害があるそうです。飢饉となれば穀物の価格が暴騰し、米価は時に二万倍も暴騰します。このため平常倉や義倉があるのですが、それも壊れて使えないものが多く、またこれらの倉から食糧を市民に配ろうにも介在する官吏が掠め取るので、市民にまで届きません。それで多くの餓死者が出るのです。道光29年(1849年)には1375万人が餓死し、光緒3,4年(1877、78年)には950万人が餓死しています。そして、と桑原は続けるのですが、「やや大なる飢饉があれば、cannibalismがほとんど必然的に現出する」と。

(2)籠城して食糧尽きて人肉を食用とする場合
これはほとんど慣例となっています。後漢の末にある義士が敵に囲まれ食が尽きた時、彼はその愛妾を殺して部下に食べさせました(『後漢書』)。明末には多くの宣教師が中国に来ました。開封に滞在した者もいました。宣教師による開封陥落の記録によれば、6か月間の攻囲により食糧が尽きて、死人の肉は豚肉と同様に市場で売られました。これは大なる功徳とされたそうです。

近年のことでは、外国人の記録としてあるのですが、アヘン戦争では広東で人肉が食されました。同治年間に起こった回教徒の反乱中にも同様のことはありました。英国人がカシュガル地方を観光して記録したところでは、同治3,4年(1864、1865年)の頃には、。カシュガル城が囲まれた時、城中の中国人と彼らに協力したトルコ人は、食糧が尽きて人肉を食しました。彼らは5,6人のグループを作り、獲物を捜し歩き、一人で歩く人がいればその者を物陰に連れ込んで殺害し、わずかに骨についていた肉を各自に分配したそうです。

桑原の論文ではありませんが、中央公論社の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(並木頼寿/井上裕正)には、清朝の19世紀の官僚が友人に送った手紙として次のようなものが記されています。

地方の大官は金に目がないため、知県を務めるものは、任地で不法な厳しい取り立てを行なって、手に入れた金を大官への賄賂に使い、自分の昇進に有利にしようとする。大飢饉が起こって人が人を食うような事態になっても、税糧の徴収であるとか、官用物資の徴発に名を借りて取り立てを行ない、人民は家族を挙げて避難するありさまである。数日家にもどらずに役人の居なくなるのを待つこともあるが、家に帰ってみると犬や鶏、豚、牛など一切奪い去られている。その後何日もしないうちに、役所の胥吏(しょり)や門丁(もんてい)がやってきて、財産をあらいざらい強奪してしまうのである。

最初にこれを読んだときには、「人が人を食う事態」は比喩かと思っていたのですが、桑原論文を読んだ今となっては、これを文字通りに捉えざるを得ない自分がいるのです。

(3)嗜好品として人肉を食用とする場合
韓非子』によれば、斉の桓公は料理人の子を殺し、その料理人に調理させ、食膳に上げて舌鼓を打った、とあります。隋末唐初に出た朱粲(しゅさん)は賊の首領で、20万の部下を率いて中原を横行し、至るところで人を見つけては掠奪殺戮して食料としました。著名な文人である顔子推の子は朱粲の軍に捕らえられて幕僚となりましたが、後に軍の食料が乏しくなると彼の一家は皆朱粲に食い尽くされました。朱粲は常々人肉こそが第一の美食と公言していたそうです(『旧唐書』)。

マルコ・ポーロによると、福建地方のある住民は好んで病死でなく死んだ人間の肉を食べたそうです。彼らは殺された人間の肉を探し回り、人肉をexcellentなものとして賞美したと言われています。この住人は福建の山間に暮らす原住種族であり、中国人からは野人と呼ばれており、人肉を食すと伝えられていました。中国人とは呼べないかもしれませんが。

(4)憎悪極まって怨敵の肉を喰らう場合
怨敵は生者死者を問わずその肉を食べることが多くありました。例えば王莽です。漢室を奪った王莽は、のちに敗死すると、軍人たちはその身を裂き、関節・皮膚・骨に分け、肉は細切れにして分け、これらを欲しがって数十人が争ったそうです。その頭部は後に人民がその舌を切って食べました(『漢書』)。

このように、君主の怒りに触れて民衆の恨みを買った者が食われる例は多いのです。隋の煬帝は逆臣を烹て百官に食わせています。唐の則天武后の時代、ある酷吏は(処刑の?)後に町に棄てられると、民衆が争ってその肉を割いて食ったそうです(いずれも『資治通鑑』)。唐の玄宗の怒りを買った部下も、ついには兵士によって食われました(『新唐書』)。五代の後晋の末、契丹の手先となったある者はのちに死に処せられると市民は争ってその脳を破り、その髄を取り、その肉を細切れにして食べました(『五代史記』)。

なお、桑原の論文とは無関係ですが、マッケンジーの『朝鮮の悲劇』にも似た話があります。私はまだ細かい背景が理解できていないのでただ引用だけをします。国王が何らかの詔勅を出した時の話です(日本も関連しますが、私はまだよく理解できていません)。謀反の首謀者たちの首をはねて国王のもとへ持参せよ、という内容です。

大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。二人の大臣…が、街路にひきずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。そのうちの一人は、首のうしろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声をはりあげた。群衆は、その死体に向かって石を投げつけ、あるいは踏みつけ、またある者はその四肢をずたずたに切り裂いた。一人の男は、自分の小刀を抜き放って、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ! 奴らを食おうではないか」と叫んだ。しかし、これは逆上していた群衆にとっても、さすがにあまりにひどすぎたので、群衆は恐怖のあまり後ずさりしたのであった。(『朝鮮の悲劇』マッケンジー、第7章「国王のロシア公使館逃避」東洋文庫79頁)

(5)医療目的で人肉を食用する場合
新唐書』『宋史』『元史』『明史』などには親の病気を治すために自分の股肉を割いて食べさせる孝子の話を多く載せています。明の『本草綱目』(巻52)にも、人肉の医療効果について記してあります。明初には、ある男の話があります。男が自分の母親の病を治そうとして自分の肉を割いて食べさせたが治らなかったので、神に祈って母の病が治ったら我が子を殺すと誓いました。後に母の病気が癒えると、男は子を殺して神に感謝をしました。すると地方官憲は、なんとこの親孝行を美談とみなし、広く世間に知らせようとして君主に伝えたところ、太祖はこれを人倫を絶滅させることだと激怒して、男を島流しにしました。しかしこのような親孝行の話は、この後にも多く見られます。太祖の激怒も役に立たなかったようです。

同書の解説によれば、桑原のこの論文については二つの反応があったそうです。一つは懐疑的なものです。いくら記録にあるからといって事実のはずなんぞあるまい、というものです。「桑原先生ともあろうものが、直ちにそれを事実だと思いこむとは。あれは漢文にありがちな形容に過ぎないのだ」というのです(『同』302頁)。しかし漢文独特の形容に過ぎず事実ではない、としようにもあまりに記録が多くしかも近年の外国人の記録にもあるのです。容易には桑原説は否定できないと思います。またこういった考え方には自文化中心主義の匂いがします。自分の見分する範囲で食人肉の例がないのだから、中国にだってあるまい、とするのは自分の属する文化中心の物の見方ではないでしょうか。それで異文化が理解できるのでしょうか。己れの見解を乗り越えなければ異文化の真実の姿は理解できないのではないでしょうか。もう一つの反応は、これは解説者宮崎市定の言葉ですが、以下に記しましょう。

「ここに注意すべきは先生は最初、この風習は中国には見られるが、日本には古来嘗て行われたことがなかったと、堅く信じていられたらしい点である。ところが其の後、この主題を心にとめつつ見聞するところを綜合すると、事実は必ずしもそうとは断定できぬのではあるまいか。殊に今次の大戦中の異常な経験の中には、日本人によるこのような忌むべき蛮行も、否定することが出来ぬようである。…今日の我々は桑原論文を他国他民族のこととしてでなく、我々自身の上に引きあて、内在する魔性を懺悔するの念をこめて読み直すべきであろう。」(『同』302頁)

このような言い回しは具体性に欠け、何を指しているのか不明であるので、私には何とも言えません。日本人が大戦中に食人肉をしたということでしょうか。それならば、あくまで極限状況のことであって、桑原の挙げる五種の中の(1)(2)にしか該当しません。(3)~(5)は極限状況で生じることではなく、日本ではあまり聞かないように思われます。宮崎はどういう意味で言ったのでしょうか。私にはわかりません。さらに言えば、極限状況で食人肉をすることが本当に「内在する魔性」の現れなのでしょうか。それは生き延びようとするならばやむを得ぬ行為なのであって、魔性でも何でもないように思われるのです。私には宮崎の発言はどうにも不十分に思われます。

いずれにせよ、中国文化の暗い(?)一面を光の下に出したという点で、桑原の論文には意義があるように思われます。

なお、孔子には食人肉の習慣があったということについての反論のブログをある方から紹介していただきましたので、以下に添えます。

blog.livedoor.jp