独学者の手記

独学者のメモです。

社会主義覚書(7) キリスト教とマルクス主義

一面において、マルクス主義キリスト教(あるはユダヤ教)を換骨奪胎したものである、と言えるかもしれません。少なくともバートランドラッセルはそう考えていたようです。ラッセルの言葉を『西洋哲学史2』(市井三郎訳、みすず書房、359頁)から見てみましょう。

 

 過去、未来を通ずる歴史というものに対するユダヤ人の類型的見方は、あらゆる時代の抑圧され不運さらされたひとびとに、強力に訴えるようなものであった。聖アウグスティヌスはその類型を、キリスト教に適合させたのであり、マルクスはそれを、社会主義に適合させたのである。マルクス心理的に理解するためには、次のような対照辞引を用いるべきであろう。

 左側にあるコトバは、右側にあるコトバの感情的内容を示しているのであり、マルクスの終末観を信じうるものとさせているのは、キリスト教あるいはユダヤ教的しつけを受けたひとびとには周知のものであるところの、この感情的内容なのである。同様な対照辞引を、ナチスについてもつくることができようが、彼らの諸概念はマルクスのそれよりも、より純粋に旧約聖書的であり、それほどキリスト教的ではないのであって、彼らのいう救世主はキリストによりも、マカベア家というものによりよく類似している。

 

手短に言えば、(1)マルクス主義キリスト教と思想上同型であり、(1)抑圧された不遇なる人々の心に強く訴える感情(願望?)であって思想ではなく、(3)ナチズムの思想にも通じるもの、なのです。そしてラッセルの図式(彼のいわゆる「辞引」ですが)は以下の通りです。

 

  ヤーヴェ神=弁証法唯物論

    救世主=マルクス

 選ばれたる者=プロレタリア階級

     教会=共産党

キリストの再臨=革命
     地獄=資本家の処罰

   至福千年=共産主義的共同社会

 

これがラッセルの見解です。一理ありそうにも思われます。さらに私は別の類似点も見出しました。マルクス主義キリスト教の類似点です。それは打倒されるべき資本家階級と贖罪とされたイエスとの在り方の類似点です。マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』において「ドイツ解放の積極的な可能性」について以下のように述べます。

 

それはラディカルな鎖につながれた一階級の形成のうちにある。市民社会のいかなる階級でもないような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消であるような一身分、その普遍的な苦難のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特別の不正ではなく不正そのものを蒙っているがゆえにいかなる特別の権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなく、ただなお人間的な権原だけを拠点にすることができる一領域、ドイツの国家制度の諸帰結に一面的に対立するのではなく、それの諸帰結に全面的に対立する一領域、そして結局のところ、社会の他のすべての領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のすべての領域を解放することなしには、自分を解放することができない一領域、一言でいえば、人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる一領域、このような一階級、一身分、一領域の形成にあるのだ。社会のこうした解消が一つの特殊な身分として存在しているもの、それがプロレタリアートなのである。…

プロレタリアートは従来の世界秩序の解体を告げるのであるが、その際それはただ自分自身のあり方の秘密を表明しているだけである。なぜなら、プロレタリアートはこの世界秩序の事実上の解体であるからだ。(『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説マルクス著、城塚登訳、岩波文庫94/95頁)

 

要するに、プロレタリアートは特別な階級なのです。細部はひとまず置いておきましょう。その概略に注目しましょう。すると以下のようなところが要点となるでしょう。すなわち、プロレタリアートが現れて従来の世界は解体され、新たなる世界秩序がもたらされるのです。しかし光があれば影があるように、光明をもたらすプロレタリアートがいれば当然ながら暗く虚ろなる影であるブルジョアジーもいるのです。光がすべての闇を照らして消し去ってはじめて世界は新たなる高みへと昇るのですが、それは言い換えるならば、ブルジョアジーがすべての闇を担って歴史の舞台から消え去っていくことを意味するのです。いわばブルジョアジーがすべての罪を引っ被って死滅するのです。これと類することをパウロが述べています。パウロの言葉では、ブルジョアジーの代わりにイエスが贖われるのです。「ローマ人への手紙」を捲ってみましょう。

 

すべての人は罪を犯して神の栄光を奪い去られた。しかし今キリスト・イエズスによるあがないによって、神の恩寵により無償で義とされる。[3.23]

 

つまり、人類はアダムの行為によって罪を抱いているのですが、そのすべての罪をイエスが担って十字架で処刑されることによって、人類は罪から解放される、というのです。これがマルクスの見解に似ているように思われるのです。なんとなれば、マルクスにおいてはプロレタリアートが解放されることによって全人類が解放されることになるのですが、言い換えればすべての罪をブルジョアジーがその身に担って打倒され絶滅させられることにより、プロレタリアートは解放され人類は新たなる段階へと昇るのですから。すべてとは言えないまでも、一部においてはパウロ説とマルクス説とは思想上同型を為すように思われるのです。

 

なお、マルクスのこの見解については内田樹先生の批判が妥当であるように思われます。といっても我々の生きる現代社会の場合では、ですが。

 

…社会全体の歪みや不合理が、すべてある特定の集団の「罪」で説明できるということはないんじゃないかと思うのです。その集団を排除しさえすれば、社会全体が浄化され、原初の健全を回復するというような、そんな便利な集団があれば、それはそれで、たしかに社会改革はずいぶんシンプルになるでしょう。でも、経験的に言って、そんな都合のよい「悪の集団」は存在しません。(『若者よマルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』石川康宏×内田樹かもがわ出版、99頁)

そして内田先生は続けます。

社会の悪は、社会全体に瀰漫している。その社会の全構成員が、それぞれの仕方で、それぞれに社会を「悪くする」動きに加担している。経験はぼくにそう教えています。だから、社会を住みよいものにしたいと望むなら、自分の外のどこかに、「一般的な障害や拘束」や「周知の罪」や「公然たる抑圧の立場」を探すよりも、まずは自分自身を顧みて、自分自身が固有のしかたで隣人たちにとっての「障害、拘束」になってはいないか、「誰にも知られない罪」を犯してはいまいか、誰かにとっての「隠然たる抑圧の立場」に立ってはいまいかを問うところから始めるべきではないか。ぼくはそう思います。それによっていきなり社会がよくなるとは思いませんけれど、今より悪くなることは防げます。(『同』100頁)

 

私は内田先生とは立場は異なるかと思いますが、この言葉には同感せざるを得ないのです。