独学者の手記

独学者のメモです。

政治哲学の断片的試み1-8

素人が政治哲学的妄想を繰り広げます。いろいろと不十分な点があります。「単なる無知者の覚書」としてご理解下さい。

 

1.

市民社会的価値には、それ自体で尊ぶべきものは他者への愛と自己実現(仏教風に言えば、自利と利他となるかしらん)であり、他の諸価値はこの二者に従属する。また他者への愛と自己実現は互いに抑制と均衡をなす。つまり、他者への愛なき自己実現はエゴイズムであり、自己実現なき他者への愛はマゾヒズムである。

 

藤原保信の「自由主義の再検討」を読んで、アリストテレスの「財産の所有は決してそれ自体目的たりうるものではなかった。それはたんに有徳な善き生活のための手段にすぎず、それゆえに富の蓄積にたいしてはつねに倫理的歯止めがかけられていた」という言葉に触発された呟きである。

 

表現の自由言論の自由自己実現につながるから認められるのであり、そうでなく、自己にとっても他者にとっても有害であれば、認めない方がいいかもしれない。生存権は他者の生存を保証する愛の一表現であるので認められるのである。かくして、いかなる自由や権利であれ、愛と自己実現へと収斂する。

 

2.

文明が未発達ならば、権利は生きるための生物的なるものにとどまるが、文明が発達すれば、権利にはより善く生きるための精神的なるものが加味される。より善く生きるとは、他者への愛と自己実現をいう。この話はソクラテスの「ただ生きること」と「善く生きること」の対比にその淵源がある。

 

3.

生存権は人の生存を法的に保障しようとするもので、その根底には人間愛(他者への愛)があるので認められる。同時に、いかなる物事も理想と現実について比較考量しなければならず、生存権の理念も現実の状況に合わせて柔軟に検討されるべきである。理念としては、誰もが自分の健康を維持すべく十分な食料を得るべきであろう。しかし現実に食糧危機が起こっているとしたら、例えば父親ならば、食べる量を自主的に制限して妻子に回すべきであろう。プログラム規定説は、このような観点から見直すべきであろう。

 

言い換えると、上部構造と下部構造とは人間の思考過程において相互に干渉し合う、ということである。下部構造から遊離した上部構造は単なる盲目的イデオロギーであり、上部構造を持たぬ下部構造は現状維持に過ぎないのである。なお、マルクス主義は下部構造を上部構造に先行すると考えたようだが、私としては両者は互いに原因となり結果となると考える。

 

4.

日本国憲法第21条の表現の自由は、他者への愛と自己実現につながるものなれば積極的に認められるべきであろうし、むしろ奨励すらされるべきであろう。しかし表現の自由が他者への愛と自己実現とを、阻害しないまでも必ずしもこれら二つのものにつながらないとすれば、認められるとしても消極的たるべきである。そして表現の自由が他者への愛と自己実現とを明らかに阻害するものならば、あるいは「明白かつ現在の危険」があるならば、この自由は積極的に制限されるべきである。

 

5.

他者への愛と自己実現は、仏教的には利他と自利であり、一般的には、あるいは義務と権利などと言い換えられるかもしれない。

 

6.

権利には付与されるべき側面と獲得されるべき側面とがある。付与されても獲得しようとする気持ちがなければ、また獲得しようにも付与されそうになければ、権利は権利としては十全には機能できないだろう。中江兆民は付与の面を「恩賜」とし、獲得の側面を「回復」とした。

 

日本国憲法第12条にある自由と権利は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」というが、これは権利の獲得性を物語り、第11条の基本的人権の享有を妨げられないことや、同条の侵し得ぬ永久の権利として与えられるというのは権利の付与性をいう。

 

7.

不戦条約について、辞書などで確認した。

1928年のケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)は、国際連盟規約では戦争禁止が不徹底であったので、それを補うためにつくられた。国際紛争を解決するための手段として戦争に訴えることを否定し、国家政策としての戦争放棄国際紛争の平和的解決を定めた。ソ連・日本を含め、60ヶ国以上が加盟した多国間条約である。そして自衛戦争が認められており、条約違反に対する制裁規定を欠いていた。これは現在も効力を有する。

 

8.

日本国憲法第9条について。

9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。しかし、正義と平和は矛盾し得るので、もし平和を貫徹するつもりならば、絶対的平和主義者は9条を改定して「正義」の二文字を永久に除去しなければならない。

 

正義とは「各人に各人のものを」の意味である。この言葉はキケロが言ったとされるが、ここでは自由に考えてみよう。

例えば甲が正統に得た物は乙が奪ってはならない。もし乙がこれを奪い、甲が乙に奪われたままに放置すれば不正義となるので、正義が回復されるためには甲は乙から奪い返さねばならず、武力でもって回復が妨げられる場合には武力でもって回復を試みるべきことになる。甲は乙に奪われた物を取り返して始めて正義が実現されるのである。故に、正義の観念は武力や戦争を含むのであり、この意味において正義と平和は両立しない。だから、もし平和主義を貫徹するならば、9条は改定されてそこから正義なる文字を消し去らなければならない。したがって、平和主義者こそ9条改定を叫ばなければならない。