独学者の手記

独学者のメモです。

政治哲学の断片的試み1-8

素人が政治哲学的妄想を繰り広げます。いろいろと不十分な点があります。「単なる無知者の覚書」としてご理解下さい。

 

1.

市民社会的価値には、それ自体で尊ぶべきものは他者への愛と自己実現(仏教風に言えば、自利と利他となるかしらん)であり、他の諸価値はこの二者に従属する。また他者への愛と自己実現は互いに抑制と均衡をなす。つまり、他者への愛なき自己実現はエゴイズムであり、自己実現なき他者への愛はマゾヒズムである。

 

藤原保信の「自由主義の再検討」を読んで、アリストテレスの「財産の所有は決してそれ自体目的たりうるものではなかった。それはたんに有徳な善き生活のための手段にすぎず、それゆえに富の蓄積にたいしてはつねに倫理的歯止めがかけられていた」という言葉に触発された呟きである。

 

表現の自由言論の自由自己実現につながるから認められるのであり、そうでなく、自己にとっても他者にとっても有害であれば、認めない方がいいかもしれない。生存権は他者の生存を保証する愛の一表現であるので認められるのである。かくして、いかなる自由や権利であれ、愛と自己実現へと収斂する。

 

2.

文明が未発達ならば、権利は生きるための生物的なるものにとどまるが、文明が発達すれば、権利にはより善く生きるための精神的なるものが加味される。より善く生きるとは、他者への愛と自己実現をいう。この話はソクラテスの「ただ生きること」と「善く生きること」の対比にその淵源がある。

 

3.

生存権は人の生存を法的に保障しようとするもので、その根底には人間愛(他者への愛)があるので認められる。同時に、いかなる物事も理想と現実について比較考量しなければならず、生存権の理念も現実の状況に合わせて柔軟に検討されるべきである。理念としては、誰もが自分の健康を維持すべく十分な食料を得るべきであろう。しかし現実に食糧危機が起こっているとしたら、例えば父親ならば、食べる量を自主的に制限して妻子に回すべきであろう。プログラム規定説は、このような観点から見直すべきであろう。

 

言い換えると、上部構造と下部構造とは人間の思考過程において相互に干渉し合う、ということである。下部構造から遊離した上部構造は単なる盲目的イデオロギーであり、上部構造を持たぬ下部構造は現状維持に過ぎないのである。なお、マルクス主義は下部構造を上部構造に先行すると考えたようだが、私としては両者は互いに原因となり結果となると考える。

 

4.

日本国憲法第21条の表現の自由は、他者への愛と自己実現につながるものなれば積極的に認められるべきであろうし、むしろ奨励すらされるべきであろう。しかし表現の自由が他者への愛と自己実現とを、阻害しないまでも必ずしもこれら二つのものにつながらないとすれば、認められるとしても消極的たるべきである。そして表現の自由が他者への愛と自己実現とを明らかに阻害するものならば、あるいは「明白かつ現在の危険」があるならば、この自由は積極的に制限されるべきである。

 

5.

他者への愛と自己実現は、仏教的には利他と自利であり、一般的には、あるいは義務と権利などと言い換えられるかもしれない。

 

6.

権利には付与されるべき側面と獲得されるべき側面とがある。付与されても獲得しようとする気持ちがなければ、また獲得しようにも付与されそうになければ、権利は権利としては十全には機能できないだろう。中江兆民は付与の面を「恩賜」とし、獲得の側面を「回復」とした。

 

日本国憲法第12条にある自由と権利は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」というが、これは権利の獲得性を物語り、第11条の基本的人権の享有を妨げられないことや、同条の侵し得ぬ永久の権利として与えられるというのは権利の付与性をいう。

 

7.

不戦条約について、辞書などで確認した。

1928年のケロッグ=ブリアン条約(不戦条約)は、国際連盟規約では戦争禁止が不徹底であったので、それを補うためにつくられた。国際紛争を解決するための手段として戦争に訴えることを否定し、国家政策としての戦争放棄国際紛争の平和的解決を定めた。ソ連・日本を含め、60ヶ国以上が加盟した多国間条約である。そして自衛戦争が認められており、条約違反に対する制裁規定を欠いていた。これは現在も効力を有する。

 

8.

日本国憲法第9条について。

9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。しかし、正義と平和は矛盾し得るので、もし平和を貫徹するつもりならば、絶対的平和主義者は9条を改定して「正義」の二文字を永久に除去しなければならない。

 

正義とは「各人に各人のものを」の意味である。この言葉はキケロが言ったとされるが、ここでは自由に考えてみよう。

例えば甲が正統に得た物は乙が奪ってはならない。もし乙がこれを奪い、甲が乙に奪われたままに放置すれば不正義となるので、正義が回復されるためには甲は乙から奪い返さねばならず、武力でもって回復が妨げられる場合には武力でもって回復を試みるべきことになる。甲は乙に奪われた物を取り返して始めて正義が実現されるのである。故に、正義の観念は武力や戦争を含むのであり、この意味において正義と平和は両立しない。だから、もし平和主義を貫徹するならば、9条は改定されてそこから正義なる文字を消し去らなければならない。したがって、平和主義者こそ9条改定を叫ばなければならない。

 

 

社会主義覚書(7) キリスト教とマルクス主義

一面において、マルクス主義キリスト教(あるはユダヤ教)を換骨奪胎したものである、と言えるかもしれません。少なくともバートランドラッセルはそう考えていたようです。ラッセルの言葉を『西洋哲学史2』(市井三郎訳、みすず書房、359頁)から見てみましょう。

 

 過去、未来を通ずる歴史というものに対するユダヤ人の類型的見方は、あらゆる時代の抑圧され不運さらされたひとびとに、強力に訴えるようなものであった。聖アウグスティヌスはその類型を、キリスト教に適合させたのであり、マルクスはそれを、社会主義に適合させたのである。マルクス心理的に理解するためには、次のような対照辞引を用いるべきであろう。

 左側にあるコトバは、右側にあるコトバの感情的内容を示しているのであり、マルクスの終末観を信じうるものとさせているのは、キリスト教あるいはユダヤ教的しつけを受けたひとびとには周知のものであるところの、この感情的内容なのである。同様な対照辞引を、ナチスについてもつくることができようが、彼らの諸概念はマルクスのそれよりも、より純粋に旧約聖書的であり、それほどキリスト教的ではないのであって、彼らのいう救世主はキリストによりも、マカベア家というものによりよく類似している。

 

手短に言えば、(1)マルクス主義キリスト教と思想上同型であり、(1)抑圧された不遇なる人々の心に強く訴える感情(願望?)であって思想ではなく、(3)ナチズムの思想にも通じるもの、なのです。そしてラッセルの図式(彼のいわゆる「辞引」ですが)は以下の通りです。

 

  ヤーヴェ神=弁証法唯物論

    救世主=マルクス

 選ばれたる者=プロレタリア階級

     教会=共産党

キリストの再臨=革命
     地獄=資本家の処罰

   至福千年=共産主義的共同社会

 

これがラッセルの見解です。一理ありそうにも思われます。さらに私は別の類似点も見出しました。マルクス主義キリスト教の類似点です。それは打倒されるべき資本家階級と贖罪とされたイエスとの在り方の類似点です。マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』において「ドイツ解放の積極的な可能性」について以下のように述べます。

 

それはラディカルな鎖につながれた一階級の形成のうちにある。市民社会のいかなる階級でもないような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消であるような一身分、その普遍的な苦難のゆえに普遍的な性格をもち、なにか特別の不正ではなく不正そのものを蒙っているがゆえにいかなる特別の権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなく、ただなお人間的な権原だけを拠点にすることができる一領域、ドイツの国家制度の諸帰結に一面的に対立するのではなく、それの諸帰結に全面的に対立する一領域、そして結局のところ、社会の他のすべての領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のすべての領域を解放することなしには、自分を解放することができない一領域、一言でいえば、人間の完全な喪失であり、それゆえにただ人間の完全な再獲得によってのみ自分自身を獲得することができる一領域、このような一階級、一身分、一領域の形成にあるのだ。社会のこうした解消が一つの特殊な身分として存在しているもの、それがプロレタリアートなのである。…

プロレタリアートは従来の世界秩序の解体を告げるのであるが、その際それはただ自分自身のあり方の秘密を表明しているだけである。なぜなら、プロレタリアートはこの世界秩序の事実上の解体であるからだ。(『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説マルクス著、城塚登訳、岩波文庫94/95頁)

 

要するに、プロレタリアートは特別な階級なのです。細部はひとまず置いておきましょう。その概略に注目しましょう。すると以下のようなところが要点となるでしょう。すなわち、プロレタリアートが現れて従来の世界は解体され、新たなる世界秩序がもたらされるのです。しかし光があれば影があるように、光明をもたらすプロレタリアートがいれば当然ながら暗く虚ろなる影であるブルジョアジーもいるのです。光がすべての闇を照らして消し去ってはじめて世界は新たなる高みへと昇るのですが、それは言い換えるならば、ブルジョアジーがすべての闇を担って歴史の舞台から消え去っていくことを意味するのです。いわばブルジョアジーがすべての罪を引っ被って死滅するのです。これと類することをパウロが述べています。パウロの言葉では、ブルジョアジーの代わりにイエスが贖われるのです。「ローマ人への手紙」を捲ってみましょう。

 

すべての人は罪を犯して神の栄光を奪い去られた。しかし今キリスト・イエズスによるあがないによって、神の恩寵により無償で義とされる。[3.23]

 

つまり、人類はアダムの行為によって罪を抱いているのですが、そのすべての罪をイエスが担って十字架で処刑されることによって、人類は罪から解放される、というのです。これがマルクスの見解に似ているように思われるのです。なんとなれば、マルクスにおいてはプロレタリアートが解放されることによって全人類が解放されることになるのですが、言い換えればすべての罪をブルジョアジーがその身に担って打倒され絶滅させられることにより、プロレタリアートは解放され人類は新たなる段階へと昇るのですから。すべてとは言えないまでも、一部においてはパウロ説とマルクス説とは思想上同型を為すように思われるのです。

 

なお、マルクスのこの見解については内田樹先生の批判が妥当であるように思われます。といっても我々の生きる現代社会の場合では、ですが。

 

…社会全体の歪みや不合理が、すべてある特定の集団の「罪」で説明できるということはないんじゃないかと思うのです。その集団を排除しさえすれば、社会全体が浄化され、原初の健全を回復するというような、そんな便利な集団があれば、それはそれで、たしかに社会改革はずいぶんシンプルになるでしょう。でも、経験的に言って、そんな都合のよい「悪の集団」は存在しません。(『若者よマルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』石川康宏×内田樹かもがわ出版、99頁)

そして内田先生は続けます。

社会の悪は、社会全体に瀰漫している。その社会の全構成員が、それぞれの仕方で、それぞれに社会を「悪くする」動きに加担している。経験はぼくにそう教えています。だから、社会を住みよいものにしたいと望むなら、自分の外のどこかに、「一般的な障害や拘束」や「周知の罪」や「公然たる抑圧の立場」を探すよりも、まずは自分自身を顧みて、自分自身が固有のしかたで隣人たちにとっての「障害、拘束」になってはいないか、「誰にも知られない罪」を犯してはいまいか、誰かにとっての「隠然たる抑圧の立場」に立ってはいまいかを問うところから始めるべきではないか。ぼくはそう思います。それによっていきなり社会がよくなるとは思いませんけれど、今より悪くなることは防げます。(『同』100頁)

 

私は内田先生とは立場は異なるかと思いますが、この言葉には同感せざるを得ないのです。

 

 

 

 

 

 

 

社会主義覚書(6) マルクスは平和革命論者か

『若者よマルクスを読もう』で石川康宏先生は次のように述べておられます。

 

マルクスの革命論は、議会をつうじて労働者階級の権力をまず打ち立て、それを推進力として、労資関係を基本とした資本主義関係を転換していくという道筋になっています。つまり、世間でよくいわれる「暴力革命」論ではないのです。じつは、マルクスを「暴力革命」論者として有名にする上で大きな役割を果たしたのは、皮肉なことに後のレーニンでした。例の『国家と革命』です。さらに、そのレーニンの議論を一層単純化して普及したのがスターリンです。この革命の方法論については、マルクスレーニンのあいだに大きな見解の相違があります…。(140頁)

 

では、そのレーニンの『国家と革命』(角田安正訳、ちくま学芸文庫)から引用してみましょう。

 

エンゲルスにおいては、暴力革命の歴史的評価がそのまま暴力革命の正真正銘の賛辞となっている。…エンゲルスの考察は以下のとおりである。(042頁)

 

そしてレーニンエンゲルスの言葉を『反デューリング論』から抜き出します。以下、レーニンの『国家と革命』から孫引きをしていきます。

 

…暴力は歴史上、(悪の根源であると同時に)別の役割も果たしている。それは革命という役割である。暴力はマルクスの言によれば、新しい社会を孕むあらゆる古い社会の産婆である。暴力とは、社会運動がその前途をうがつための道具であり、硬直化して、麻痺状態に陥った政治的形式を粉砕するための道具である。…デューリング氏はなんと、「残念ながら」と断りつつ、搾取経済体制を転覆させるためには恐らく暴力が必要になるということを、ため息まじりにいやいや認めているだけである。なぜ「残念ながら」かというと、暴力を行使する者は決まって精神が堕落するからだ、というのがデューリング氏の言い分である。ところが、こうしたデューリング氏の発言は、革命が勝利すれば決まって高邁な道徳と思想が高揚するという事実を無視するものである!

 

いかがでしょうか。ここに書かれていることを要約してみましょう。(1)暴力は新社会を生み出す産婆である(マルクスの思想とされています)、(2)暴力はデューリング氏の言うように消極的に認めるのではなくて積極的に推し進めるべきである、(3)暴力革命成就の暁には高邁な道徳と思想が高揚する、となります。暴力は避けるべきものではなくて推進すべきものであり、しかも暴力が一段落するや道徳心が高揚するというのです。明らかなる暴力肯定論です。しかもこの考えにはマルクスが一枚嚙んでいる、とエンゲルスは考えているのです。以下にここで述べられたマルクスの言葉を『資本論』から引用します。

 

強力は、新しい社会をはらむ、すべての古い社会の助産婦である。(向坂逸郎訳、第1巻第7編第24章第6節、岩波文庫資本論(三)』398頁)

 

ここでいう「強力」とは「暴力」の意味であろうと思われます。ここでは、マルクスは暴力を為すべしとは言ってはいないものの、少しも否定していないのです。こうしたことから、石川先生のマルクス平和革命論者説は私には納得しかねるのです。レーニンマルクスを暴力革命の提唱者としたのではなくて、マルクスの盟友たるエンゲルスがそうしたのであり、のみならずマルクス自身暴力を少しも回避しようとしていないように思われれるのです。

 

 

 

 

 

 

思うこと(1)

「戦争は絶対反対」という呟きを見ました。戦争反対なのは戦争が悪だからでしょう。すると侵略側も悪ならば、それに抵抗する被侵略側も悪となります。いじめっ子が殴ってきたからいじめられっ子が応戦して、先生から「暴力は悪だからどちらも悪い」という喧嘩両成敗のようなものです。これでは、被害者側が救われません。

 

暴力は常に悪なのではなく、戦争も常に悪なのではないのです。加害者の暴力と被害者の正当防衛はわけて考えられるべきであり、同様に侵略戦争自衛戦争も区別すべきなのです。そうでなければ、ウクライナ人は救われません。

 

以上は、いろいろな呟きを見て私が学んだことです。中立もそうです。中立は、どちらが悪いのかわからない場合はやむを得ないでしょう。またどちらも悪い場合にも妥当でしょう。しかし加害者と被害者が明確である場合には、中立とは加害者に抵抗しないことであり、被害者に手を貸さないことになります。これでは、消極的ながらも悪に対して加担しているのと同じであるように思われます。加害者と被害者が明確であれば、被害者側に加担すべきなのであり、日和見的態度なんぞとるべきではないのです。

中国メモ(1) 中国における食人肉の風習について

桑原隲蔵(くわばらじつぞう)[1870-1931]という東洋史学者がいます。東洋文庫には彼の『東洋文明史論』があります。そこには、中国の南部と北部のさまざまな違いに注目した「歴史上より観たる南北支那」、中国における食人肉の風習をさまざまな文献から詳細に証明した「支那人に於ける食人肉の風習」、中国以外の国の視点から見られた中国の姿を論じた「アラブ人の記録にら見えたる支那」、そしてかっては西洋より進んだ文明を誇っていた中国の技術を解説した「紙の歴史」「カーター氏著『支那に於ける印刷の起源』」が収められています。ここでは、彼の中国における食人肉の風習を証明した論文「支那人に於ける食人肉の風習」に注目したいと思います。

桑原は、日中友好を前提とした上で、中国の長短両面を見るように説き、その「暗黒の方面」として中国における食人肉の風習を説明します。この風習は決して例外的事象でなく、ある意味でごく日常的事象である、というのです。まず、日中友好については次のように語ります。

「日支両国は唇歯相倚る間柄で、もちろん親善でなければならぬ。日支の親善を図るには、まず日本人がよく支那人(ママ)を了解せねばならぬ。支那人をよく了解するためには、表裏二面より彼等を観察する必要がある。経伝詩文によって、支那人の長所美点を会得するのももちろん必要であるが、同時にその反対の方面、すなわちその暗黒の方面をも一応心得おくべきことと思う。食人肉風習の存在は、支那人にとってあまり名誉のことではない。されど儼然たる事実は、とうていこれを掩蔽することを許さぬ。支那人の一面に、かかる風習の存在せし、もしくば存在することを承知しおくのも、また支那人を了解するに無用であるまいと思う。」〔『東洋文明史論』「支那人間に於ける食人肉の風習」166頁、桑原隲蔵東洋文庫

つまり、桑原は中国に対して崇拝するのでなく、さりとて反発一辺倒でもなく、きわめて冷静にその実情を確かめようというのです。学問的態度であると考えます。以下、桑原の論文をまとめてみます。

中国における食人肉の場合には以下の五種があります。(1)飢饉の時に人肉を食用する場合(2)籠城して食糧尽きて人肉を食用とする場合(3)嗜好品として人肉を食用とする場合(4)憎悪極まって怨敵の肉を喰らう場合(5)医療目的で人肉を食用する場合、です。以下、少し詳しく記します。(桑原の論文には実に多くの例が挙げられていますので、興味のある方は参照なさって下さい。なお、この記事を書き終わろうとしている時に、論文が青空文庫にあると知って少々落ち込んでおります…書く必要がなかった……)

支那人間に於ける食人肉の風習」桑原隲藏www.aozora.gr.jp


(1)飢饉の時に人肉を食用する場合
中国では、一説によると千年間で五百年は旱魃の被害があるそうです。飢饉となれば穀物の価格が暴騰し、米価は時に二万倍も暴騰します。このため平常倉や義倉があるのですが、それも壊れて使えないものが多く、またこれらの倉から食糧を市民に配ろうにも介在する官吏が掠め取るので、市民にまで届きません。それで多くの餓死者が出るのです。道光29年(1849年)には1375万人が餓死し、光緒3,4年(1877、78年)には950万人が餓死しています。そして、と桑原は続けるのですが、「やや大なる飢饉があれば、cannibalismがほとんど必然的に現出する」と。

(2)籠城して食糧尽きて人肉を食用とする場合
これはほとんど慣例となっています。後漢の末にある義士が敵に囲まれ食が尽きた時、彼はその愛妾を殺して部下に食べさせました(『後漢書』)。明末には多くの宣教師が中国に来ました。開封に滞在した者もいました。宣教師による開封陥落の記録によれば、6か月間の攻囲により食糧が尽きて、死人の肉は豚肉と同様に市場で売られました。これは大なる功徳とされたそうです。

近年のことでは、外国人の記録としてあるのですが、アヘン戦争では広東で人肉が食されました。同治年間に起こった回教徒の反乱中にも同様のことはありました。英国人がカシュガル地方を観光して記録したところでは、同治3,4年(1864、1865年)の頃には、。カシュガル城が囲まれた時、城中の中国人と彼らに協力したトルコ人は、食糧が尽きて人肉を食しました。彼らは5,6人のグループを作り、獲物を捜し歩き、一人で歩く人がいればその者を物陰に連れ込んで殺害し、わずかに骨についていた肉を各自に分配したそうです。

桑原の論文ではありませんが、中央公論社の『世界の歴史19 中華帝国の危機』(並木頼寿/井上裕正)には、清朝の19世紀の官僚が友人に送った手紙として次のようなものが記されています。

地方の大官は金に目がないため、知県を務めるものは、任地で不法な厳しい取り立てを行なって、手に入れた金を大官への賄賂に使い、自分の昇進に有利にしようとする。大飢饉が起こって人が人を食うような事態になっても、税糧の徴収であるとか、官用物資の徴発に名を借りて取り立てを行ない、人民は家族を挙げて避難するありさまである。数日家にもどらずに役人の居なくなるのを待つこともあるが、家に帰ってみると犬や鶏、豚、牛など一切奪い去られている。その後何日もしないうちに、役所の胥吏(しょり)や門丁(もんてい)がやってきて、財産をあらいざらい強奪してしまうのである。

最初にこれを読んだときには、「人が人を食う事態」は比喩かと思っていたのですが、桑原論文を読んだ今となっては、これを文字通りに捉えざるを得ない自分がいるのです。

(3)嗜好品として人肉を食用とする場合
韓非子』によれば、斉の桓公は料理人の子を殺し、その料理人に調理させ、食膳に上げて舌鼓を打った、とあります。隋末唐初に出た朱粲(しゅさん)は賊の首領で、20万の部下を率いて中原を横行し、至るところで人を見つけては掠奪殺戮して食料としました。著名な文人である顔子推の子は朱粲の軍に捕らえられて幕僚となりましたが、後に軍の食料が乏しくなると彼の一家は皆朱粲に食い尽くされました。朱粲は常々人肉こそが第一の美食と公言していたそうです(『旧唐書』)。

マルコ・ポーロによると、福建地方のある住民は好んで病死でなく死んだ人間の肉を食べたそうです。彼らは殺された人間の肉を探し回り、人肉をexcellentなものとして賞美したと言われています。この住人は福建の山間に暮らす原住種族であり、中国人からは野人と呼ばれており、人肉を食すと伝えられていました。中国人とは呼べないかもしれませんが。

(4)憎悪極まって怨敵の肉を喰らう場合
怨敵は生者死者を問わずその肉を食べることが多くありました。例えば王莽です。漢室を奪った王莽は、のちに敗死すると、軍人たちはその身を裂き、関節・皮膚・骨に分け、肉は細切れにして分け、これらを欲しがって数十人が争ったそうです。その頭部は後に人民がその舌を切って食べました(『漢書』)。

このように、君主の怒りに触れて民衆の恨みを買った者が食われる例は多いのです。隋の煬帝は逆臣を烹て百官に食わせています。唐の則天武后の時代、ある酷吏は(処刑の?)後に町に棄てられると、民衆が争ってその肉を割いて食ったそうです(いずれも『資治通鑑』)。唐の玄宗の怒りを買った部下も、ついには兵士によって食われました(『新唐書』)。五代の後晋の末、契丹の手先となったある者はのちに死に処せられると市民は争ってその脳を破り、その髄を取り、その肉を細切れにして食べました(『五代史記』)。

なお、桑原の論文とは無関係ですが、マッケンジーの『朝鮮の悲劇』にも似た話があります。私はまだ細かい背景が理解できていないのでただ引用だけをします。国王が何らかの詔勅を出した時の話です(日本も関連しますが、私はまだよく理解できていません)。謀反の首謀者たちの首をはねて国王のもとへ持参せよ、という内容です。

大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。二人の大臣…が、街路にひきずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。そのうちの一人は、首のうしろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声をはりあげた。群衆は、その死体に向かって石を投げつけ、あるいは踏みつけ、またある者はその四肢をずたずたに切り裂いた。一人の男は、自分の小刀を抜き放って、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ! 奴らを食おうではないか」と叫んだ。しかし、これは逆上していた群衆にとっても、さすがにあまりにひどすぎたので、群衆は恐怖のあまり後ずさりしたのであった。(『朝鮮の悲劇』マッケンジー、第7章「国王のロシア公使館逃避」東洋文庫79頁)

(5)医療目的で人肉を食用する場合
新唐書』『宋史』『元史』『明史』などには親の病気を治すために自分の股肉を割いて食べさせる孝子の話を多く載せています。明の『本草綱目』(巻52)にも、人肉の医療効果について記してあります。明初には、ある男の話があります。男が自分の母親の病を治そうとして自分の肉を割いて食べさせたが治らなかったので、神に祈って母の病が治ったら我が子を殺すと誓いました。後に母の病気が癒えると、男は子を殺して神に感謝をしました。すると地方官憲は、なんとこの親孝行を美談とみなし、広く世間に知らせようとして君主に伝えたところ、太祖はこれを人倫を絶滅させることだと激怒して、男を島流しにしました。しかしこのような親孝行の話は、この後にも多く見られます。太祖の激怒も役に立たなかったようです。

同書の解説によれば、桑原のこの論文については二つの反応があったそうです。一つは懐疑的なものです。いくら記録にあるからといって事実のはずなんぞあるまい、というものです。「桑原先生ともあろうものが、直ちにそれを事実だと思いこむとは。あれは漢文にありがちな形容に過ぎないのだ」というのです(『同』302頁)。しかし漢文独特の形容に過ぎず事実ではない、としようにもあまりに記録が多くしかも近年の外国人の記録にもあるのです。容易には桑原説は否定できないと思います。またこういった考え方には自文化中心主義の匂いがします。自分の見分する範囲で食人肉の例がないのだから、中国にだってあるまい、とするのは自分の属する文化中心の物の見方ではないでしょうか。それで異文化が理解できるのでしょうか。己れの見解を乗り越えなければ異文化の真実の姿は理解できないのではないでしょうか。もう一つの反応は、これは解説者宮崎市定の言葉ですが、以下に記しましょう。

「ここに注意すべきは先生は最初、この風習は中国には見られるが、日本には古来嘗て行われたことがなかったと、堅く信じていられたらしい点である。ところが其の後、この主題を心にとめつつ見聞するところを綜合すると、事実は必ずしもそうとは断定できぬのではあるまいか。殊に今次の大戦中の異常な経験の中には、日本人によるこのような忌むべき蛮行も、否定することが出来ぬようである。…今日の我々は桑原論文を他国他民族のこととしてでなく、我々自身の上に引きあて、内在する魔性を懺悔するの念をこめて読み直すべきであろう。」(『同』302頁)

このような言い回しは具体性に欠け、何を指しているのか不明であるので、私には何とも言えません。日本人が大戦中に食人肉をしたということでしょうか。それならば、あくまで極限状況のことであって、桑原の挙げる五種の中の(1)(2)にしか該当しません。(3)~(5)は極限状況で生じることではなく、日本ではあまり聞かないように思われます。宮崎はどういう意味で言ったのでしょうか。私にはわかりません。さらに言えば、極限状況で食人肉をすることが本当に「内在する魔性」の現れなのでしょうか。それは生き延びようとするならばやむを得ぬ行為なのであって、魔性でも何でもないように思われるのです。私には宮崎の発言はどうにも不十分に思われます。

いずれにせよ、中国文化の暗い(?)一面を光の下に出したという点で、桑原の論文には意義があるように思われます。

なお、孔子には食人肉の習慣があったということについての反論のブログをある方から紹介していただきましたので、以下に添えます。

blog.livedoor.jp

社会主義覚書(5) マルクスの戦略的平和

マルクスは『共産党宣言』Ⅳで共産主義者について次のように述べます。

「かれらは、労働者階級の、直接に当面する諸目的と諸利益の達成のために闘争するが、しかしかれらは、現在の運動のなかで、同時に運動の未来を代表する。」〔『共産党宣言共産主義の諸原理』マルクスエンゲルス、水田洋訳、講談社学術文庫65頁〕

つまり、共産主義者は労働者階級の目先の利益のために運動するのですが、同時に労働者階級の未来を見据えても行動するのです。換言すれば、後々不利益を生むと知りながらも、いまは利益になるのでブルジョア階級とは助け合うのです。そうしてやがてブルジョア階級が自らの不利益になった暁には、躊躇いもなく倒すのです。だからマルクスは次のようにも述べるのです。

「ドイツでは、共産党は、ブルジョアジーが革命的にふるまうかぎり、ブルジョアジーと共同して絶対王政、封建的土地所有、小市民層と闘争する。/しかしかれらは、ブルジョアジープロレタリアートの敵対的対立についての、できるだけ明白な意識を、労働者のうちにつくりだすことを、いかなる瞬間にも放棄しない。……こうして、ドイツにおける反動的諸階級の妨害ののちに、ただちにブルジョアジー自身にたいする闘争がはじまるようにするためである。」〔同66頁〕

共産主義者は、「いかなる瞬間にも」労働者に資本家に対する敵対的意識を抱かせようとするのです。両階級における敵対性は絶対的なのです。マルクスが労働者に資本家との協調を呼び掛けるとしたら、それはせいぜい束の間のことであり、あるいは戦略的なものなのではないでしょうか。マルクスの協調的平和主義は戦略に過ぎないのではないでしょうか。

社会主義覚書⑷ 隠し得ぬマルクスの牙

マルクスは、かの『共産党宣言』において、プロレタリアートの一般的発展段階を詳述した後にこう言います。

 

「…こうしてわれわれは、それが爆発公然たる革命となり、プロレタリアートが強力によってブルジョアジーを転覆し、自己の支配をうちたてる、という点に達したのである。」

マルクス共産党宣言』水田洋訳、講談社学術文庫、29頁)

 

 

そして次のように結論づけます。

 

「…こうして、ブルジョアジーの足もとから、かれらが生産して生産物を取得するための基礎自体が、とりさられる。かれらは、なによりもまず、自分自身の墓堀人を生産する。かれらの没落とプロレタリアートの勝利は、ひとしく不可避的である。」(同、p.30)

 

仮にマルクスが平和的革命家であり、その教えを受けた労働者が資本家に話し掛けるとしたら、果たして以下のような調子になるではないでしょうか。

 

「俺たちが掘っているのは何かだって?アンタらの墓穴さ。アンタらが俺たちに負けて没落するのは決まっているからな。俺たちがアンタらを打ち負かして支配者となるんだからな。あ、でも俺たちとアンタらは飽くまでもダチだかんな?忘れんなよ?」

 

いやいや、こんなことを言われて誰が友情を信じるというのでしょうか。お前を倒して墓穴に埋めてやるよ、という相手がどうして助け合う友人でありえるのでしょうか。マルクスが平和的革命家である、との意見はどうにも頼りになりそうにないのです。