独学者の手記

独学者のメモです。

社会主義覚書⑶ 絶滅と根絶と

私の手元には古びた岩波文庫の『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説』があります。訳者は城塚登となっています。この書には、マルクスの文字通り議論否定の姿勢が表れています。マルクスはこの『ヘーゲル法哲学批判』の「序説」において、ドイツの現状を述べては次のように宣言します、「ドイツの状態には〔平和どころか〕たたかいこそあれ!」と。そしてマルクスは続けます。

「ドイツの現状を相手にして闘争するさいには、批判は頭脳の情熱ではなく、情熱の頭脳である。批判はけっして解剖のメスなどではなく、一つの武器である。批判の対象は、論駁しようとする敵ではなく、絶滅しようとする敵である。なぜなら、ドイツの状態の精神はもう論駁されているからである。」(76頁)

この文言を文字通りに捉えるならば、マルクスは論敵を論駁するつもりは毛頭ないのです。そうではなくて、ただただ絶滅させようとするのです。(ただし、「ドイツの現状を相手にして闘争するさいには」と限定されてはいます)

「批判は、もはや自己目的としてなされるのではなく、ただ手段としてなされるだけである。批判の本質的な情念は憤激であり、その本質的な仕事は弾劾である。」(76頁)

つまり、批判の目的は相互理解ではなく、自説が誤っている可能性があるとする可謬性なんぞはまったく考えられておらず、相手の説が正しいとも露ほども思ってはいないのです。批判の目的は弾劾であり、ついには絶滅であり、批判はこの絶滅という目的に従属するものに過ぎないのです。いわゆる寛容などは屁の河童でしかないのです。

このような一方的な態度からは、マルクスが平和主義的革命家であるとの姿は、私にはどうにも思い描けないのです。

なお、「絶滅」といえば、内田樹先生は『若者よ、マルクスを読もう 20歳代の模索と情熱』(石川康宏×内田樹 かもがわ出版)で次のことを述べています。

…「すべての邪悪なものを根絶する」ためには、どうしても、異端審問と強制収容所と大量虐殺装置が必要になります。必ず、なる。歴史を顧みる限り、一気に全社会的に「善いこと」を実現しようとしたプロジェクトでそれに類する制度をもたなかったものはありません。「邪悪なものの根絶」という目的そのものは非の打ちどころなく立派ですけれど、その目的を実現するために実際に働くのは「非の打ちどころばかり」の生身の人間です。(226頁)

マルクスは資本家階級を邪悪とみなしてはいなかったでしょうか。そして上述せる敵に対する絶滅論を加えれば、マルクスは資本家を絶対的に敵視して絶滅しようとしてはいないのでしょうか。すると、むしろマルクスの見解こそが、内田先生のいうところの異端審問と強制収容所と大量虐殺装置を生み出すのではないでしょうか。そのような疑問がどうしても私の中では生じざるを得ないのです。